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1.栗田城跡 |
現在の日吉神社(水内惣社日吉大神社)がある場所は、かつて栗田城の本郭だった所です。
栗田城は、別名を堀之内城といい、長野市では最大規模の館跡の一つです。鎌倉時代から戦国時代にかけての約400年間、この地域の豪族・栗田氏の居城でした。
この城には、当時、二重の堀がありました。今、日吉公園になっている所がその跡です。(昭和48年に埋めたてられて、遊園地になりました)
また、日吉神社の本殿が建っている高台も、実は城が築かれた当時に人力で土が盛られて造られたもの(土塁)です。
当時の城の範囲は、現在の日吉神社と日吉公園のエリアよりずっと広く、東はルンビニ幼稚園のあたり、西はファミリーレストラン「あっぷるぐりむ」のあたり、南は部屋田のあたり、そして北は栗田新道が通じているあたりまで含まれていました。
栗田氏は、甲斐(現在の山梨県)の武田信玄と越後(現在の新潟県)の上杉謙信が争った「川中島の戦い」(1500年代後半)の時には武田方につき、天文24年(1555年)には栗田鶴寿らが旭山城に入って戦い、上杉勢を相手に約百日も守り通しましたが、その戦いの後、栗田氏は甲斐に移っていき(栗田鶴寿は後に遠州の高天神城で戦死)、そのまま子孫も戻ることなく、栗田城もやがて廃されてしまいました。
平成2年(1990年)、栗田城跡の一部に「グランドハイツ東公園」マンションが建設されることになり、それに先立つ発掘調査が行われた結果、13世紀から15世紀前半にかけて造られたと思われる中国産の磁器、瀬戸・美濃産の陶器、土器、古銭(永楽通宝など)が多数発掘されました。ことに古瀬戸の天目茶碗は見事なものです。 |
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2.日吉神社(水内惣社日吉大神社) |
かつての栗田城の本郭の土塁上に建つ神社が、日吉神社(水内惣社日吉大神社)です。
この地には、もともと栗田城があった頃から、この土地の産土神(この地域の昔からの守り神)である「栗田大元神社」がまつられていましたが、明治41年(1908年)に、山王にあった「水内惣社日吉大神社」と、部屋田にあった「日の御子社」などが合祀されました。
祭神は「大山咋命」(おおやまくいのみこと/滋賀県大津市の日吉大社の祭神。「大山に杭を打つ神様」、つまり大きな山を持っている神様の意=山の神様)と「罔象女命」(みずはのめのみこと/女の神様で、水や井戸の守り神)です。
春祭りは5月3日で、秋祭りは9月23日です。 |
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3.旧栗田村高札場 |
日吉神社(水内惣社日吉大神社)の境内の片隅に、旧栗田村の高札場が移築・保存されています。
高札場とは、江戸時代に、当時の法律(法度)や、きまり(掟書)などを記した板札を、その地域の人々に広く知らせるため、高く掲げられるようにした場所のことです。
かつてはルンビニ幼稚園の入口近くに建てられていました。 |
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4.「高松宮殿下御成記念」の碑 |
日吉神社(水内惣社日吉大神社)本殿のすぐ東脇(栗田城跡の土塁遺構の上)にあります。
昭和11年(1936年)に高松宮殿下が当地に来られたことの記念に、翌年設置されました。
高松宮殿下は大正天皇の第三皇子・宣仁親王で、大正2年(1913年)、高松宮の称号により有栖川宮家(15世紀中頃から続く親王家の一つ)を継承されました。また旧日本海軍に所属し、昭和20年(1945年)の太平洋戦争終戦時には、戦争継続を叫ぶ抗戦派に対し、終戦を受け入れるよう説得に努力されたことで知られています。 |
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5.「支那事変紀念」の碑 |
日吉神社(水内惣社日吉大神社)の西、ファミリーレストラン「あっぷるぐりむ」近くの倉庫の脇に、「紀念支那事変」と刻まれた長細い石塔が、ひっそりと建っています。
昭和12年(1937年)以降、日本は中国と戦争状態に突入しました。(当時、この戦争状態を「支那事変」又は「日華事変」と呼称しました。)日本政府は当初、この戦争状態を早期に収拾しようと考えていましたが(「不拡大」方針)、その意に反して戦火は拡大の一途をたどり、やがて太平洋戦争へとつながっていきました。
当時の日本は、この一連の戦いにより、日本を含むアジア地域が、それまでの欧米による植民地的支配から独立した「大東亜共栄圏」を打ち立てるのだという理想をかかげ、官(行政)と多くの国民とが協力して様々な活動に取り組みました。
この「支那事変紀念」の碑は、そのような機運の高まりの中、昭和14年(1939年)に、栗田の吉原組により寄付金を募って建てられたものです。(この頃、日本では中国のことを、英語のChinaに漢字をあてて「支那」と呼んでいました。「紀念」は「記念」とほぼ同じ意味です)
現在からみれば、暗い戦争の時代の遺物ではありますが、反面、当時の世相を今に伝えてくれる、貴重な「時代の証言物」の一つといえます。 |
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6.旧芹田村役場跡 |
芹田小学校から西に約200メートルほどの「JAながの芹田支所」前に、「芹田村役場」と彫られた大きい標柱があります。
ここが、旧芹田村役場の跡地です。
芹田村は、明治22年(1889年)4月1日、それまでの栗田・稲葉・若里・中御所・川合新田の5か村と、鶴賀町の中の七瀬区と居町が合併して誕生した村で、後に大正12年(1923年)7月1日に長野市に合併するまでの、約34年間、存続しました。 |
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7.三戸部氏屋敷跡 |
「JAながの芹田支所」の北東、「ミューゼビル」の東に隣接する一帯は、中世にこの地域の豪族として権勢を誇った栗田氏の重臣・三戸部氏の屋敷の跡です。(特にそのことを示す標識等はありません)
三戸部氏については『長野県町村誌』に「三戸部市左衛門なる者の家は栗田氏の枝葉にして代々重臣なりしが、栗田氏滅亡以来農に帰し連綿今日に至る」と掲載されており、この地域屈指の旧家といえますが、残念ながらその後の火災、水難等により、当時の貴重な資料の多くは失われてしまったとのことです。
遺構らしきものとしては、現在、北側の栗田病院との境に通じている水路が当時の堀の痕跡ではないかといわれている他、屋敷跡の南西の隅に残る見事な枝ぶりの松が、わずかに旧家の名残をとどめてくれています。 |
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8.芹田小学校遺跡 |
旧芹田村役場跡の東には、長野市立芹田小学校がありますが、ここは実は、少なくとも平安時代以前からの遺跡です。(特に遺跡であることを示す標識等はありません)
昭和61年(1986年)、校舎の増改築事業に先立ち、長野市遺跡調査会が緊急発掘調査を行ったところ、竪穴式住居跡などで構成される集落跡の一部と、甕、鉢、高坏(高台付きの食器)などの土器が発見されました。
土器は「須恵器」(「ろくろ」=円形の台を回転させながら、その上にのせた粘土を成形していく道具を用いて成形した、窯焼きの土器。古墳時代~平安時代に用いられました。)の特徴を有しており、ろくろによる成形の痕跡が顕著であることから、平安時代後半期(9〜10世紀頃)のものと推定されています。
また住居跡は、普通の竪穴式住居が一辺4メートル程度なのに、ここのは一辺6〜8メートルもあり、面積にして普通の4倍の規模の大形住居であることが注目されます。
芹田小学校では以前にも、グラウンド拡張時に「箱清水式土器」(千曲川流域を中心とした広い地域において、弥生時代後期に製作された土器。長野市箱清水で出土したことから、このように呼ばれています。)が出土したことがあり、さらに周辺地域においても、日詰、九反、荒木や、文化学園長野高等学校敷地などから、平安時代の須恵器や土師器(手で成形した、野焼きの土器で、同時期に並行して製作された「須恵器」より品質・形がやや劣るものです)が出土しているので、古くからこの地域がひらけていたことがわかります。 |
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9.水内俊昭の筆塚 |
旧芹田村役場跡から北に少し進んだところに、この地域の寺子屋師匠として人々の教育に尽力した水内(本姓倉石)俊昭の「筆塚」があります。
筆塚とは、使い古した筆の供養のために、筆を地に埋めて築いた塚で、栗田ではここの他、円通院境内にもみられます。
水内俊昭は、弘化4年(1847年)の「善光寺大地震」で亡くなった倉石俊明の妹婿に入り、寺子屋を継いで地域の人々に読み・書きを教えました。また、当時は普通、武士にしか許されなかった佩刀(刀を帯びること)を特別に許され、さらに水内の姓を名のることも許された、この地域の名士の一人でした。
(善光寺大地震の際、栗田は比較的被害が少なくて、潰れた家も出ず、また地震の後に犀川を一時せきとめていた土砂が決壊したことによる大水害の被害も栗田までは及ばず、村の中では一人も死者は出なかったのですが、たまたま地震発生時に善光寺町に出かけていた村民の中から死者5名を出してしまいました。水内俊昭が後を継いだ倉石俊明は、残念なことにその5名の中の一人でした)
なお、筆塚のすぐ隣には、形のよい石に達筆な文字を刻んだ道祖神があります。 |
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10.円通院 |
善光寺近くにある西方寺の末寺(本寺=本山に付属する寺)で、宗派は浄土宗、本尊は如意輪観音です。「ルンビニ幼稚園」に隣接して建っており、さながら地域の子どもたちの成長を見守ってくれているかのようです。
この寺のある場所は、栗田城の東の虎口(城の入口)付近にあたっていたようであり、栗田城主であった栗田氏の守仏をまつった堂の跡ともいわれています。
明和年間(18世紀半ば過ぎ)には、かつて栗田氏の重臣であったという三戸部氏の持分になっていました。境内には明和5年(1768年)に建てられた「三界萬霊塔」があり、この碑にも施主として三戸部氏の名が刻みつけられています。
境内にはその他、庚申塔、地蔵菩薩、筆塚などの石造文化財が多くみられます。
なお、つい最近まで、文化2年(1805年)の改築による本堂が残っていましたが、現在では(平成に入ってから)新しく建て直されています。 |
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11.「狗天伯社」と「水神」の石祠 |
栗田病院の北にあたる栗田舎利田の駐車場の南西隅に、2つの石祠が並んでまつられている一風変わった一角があります。
正面の鳥居に回ってみると、鳥居の額に「狗天伯社(こまてんばくしゃ)」という、面白い名前の神社名が記されており、鳥居をくぐったすぐ先には、向かって左側に「水神」を祀っているといわれる石祠が、また右側に「狗天伯社」といわれる石祠が鎮座しています。
これらは、いずれも造立年代不詳ながら、この近辺には他にあまり例のない、珍しい神様の石祠です。
「水神」は、その字のとおり水の神様で、かつては農業用水の守り神、すなわち豊作祈願の神様として人々に信仰されていました。
一方、「狗天伯社」については、この近辺では唯一のもので、祭神すらわからない謎の神様です。この神社は、小さいながら『長野県町村誌』にも掲載されていますが、祭神・勧請年月については「不詳」とあり、祭日が3月25日とあるのみです。頭につく「狗」の文字からは、「天狗」あるいは山犬=狼などが連想されるので、山岳宗教と何らかの関わりがありそうに思われますが、一般には水神と同様、農耕の守護神としての意味合いが強いもののようです。 |
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12.森林鉄道の機関車 |
これは、別項とはちょっと趣の異なる歴史遺産です。
南部小学校の南の「あずま通り」沿いにある中部森林管理局の前庭に、古く小さいディーゼル機関車が展示されています。この機関車は、木曽谷にある木曽郡上松町~王滝村の間に敷設されていた森林鉄道で使われていたものです。
同地の森林鉄道は、大正3年3月、長野県初の森林鉄道として開通し、当初は蒸気機関車が用いられていましたが、昭和26年からディーゼル機関車に代わり、「木曽五木」などの木材を運んでいました。
森林鉄道は、最盛期には木曽谷以外にも各所に通じていましたが、その後、木材の運搬手段はトラック主体の運搬へと次第に移行し、それにつれて各地の森林鉄道も次々に廃止され、木曽谷の森林鉄道は日本で最後まで残った森林鉄道でした。
そして昭和50年3月、同地の森林鉄道もついに廃止となりましたが、それを機に、森林鉄道の歴史を後世に末永く伝えていくため、昭和51年から中部森林管理局の前庭に木曽森林鉄道の機関車が資料展示されることになったものです。 |
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【 栗田の主な石造文化財(道祖神、庚申塔、二十三夜塔など)】
栗田には、別項に紹介したもの以外にも、多くの石で造られた碑や祠など(石造文化財)があります。
これらは、それぞれ昔からの信仰や習慣と深く関係しているものです。
それらの全ては紹介し切れませんが、主なものをピックアップしてみます。
ア.道祖神 |
その名のとおり、道の神様で、旅行や交通安全にご利益があるといわれているほか、地域自体の守り神とされたり、男女の良縁、子孫繁栄の神様とされたりするなど、いろいろな性格をもっている神様で、主に村の境や道の辻にまつられます。
安曇野地方などでは、男女が並び立つ姿が彫られた石像であることが多いのですが、栗田や、その周りの地域では、「道祖神」の文字を彫った石碑がほとんどです。
栗田には、東組に1基(建立年代不詳)、西組に2基(西のもの:建立年代不詳、東のもの:寛政11年=1799年建立)、吉原に1基(天保2年=1831年建立)、計4基の道祖神があります。いずれも文字碑ですが、西組の2基のうち、西のものの「神」の字の旁(つくり=漢字の右半分の部分)である「申」の下部には「八」の字のように付け加えた部分がある点、また東のものは細長い石柱の上に高く据え付けられている点で、それぞれ特色があります。 |
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イ.庚申塔 |
庚申塔は、中国の宗教を起源とする「庚申信仰」により建てられた石碑です。
この信仰によれば、人間の体内にいる「三尸(さんし)」という虫が、庚申の日の夜に体内から抜けだし、天帝にその人の悪事を報告するため、早死にしてしまうとされています。
そこで、それを防ぐため、庚申の日の夜には徹夜して宴会などをする習わしがあり、これを「庚申講」とか「庚申待ち」といいます。
栗田には、東組に1基(寛政12年=1800年建立)、中組に1基(建立年代不詳)、吉原に1基(天保2年=1831年建立)、計3基の庚申塔があります。
うち吉原のものは「庚申塔」の文字を彫っただけの石碑ですが、中組の円通院境内にあるものは「青面金剛神」(悪い病気を防ぐ神)と、その使いの三猿(「見ざる」「言わざる」「聞かざる」といったりします)を彫った祠形式のものです。また、東組のものは、「庚申塔」の文字の上に「○」印が刻みつけられた変わったものです。
なお、庚申の日は、昔の暦で使われていた「十干(甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)、戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのと)、壬(みずのえ)、癸(みずのと))・十二支(じゅうにし)(子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い))」の中の、「庚(かのえ)」と「申(さる)」の組み合わせに当たる日で、60日ごとに回ってきます。 |
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ウ.二十三夜塔 |
江戸時代の半ば過ぎ(18世紀ころ)から、十五夜、十九夜、二十三夜など、決まった月齢の夜に人々が集まって飲食をしたり、月を信仰して拝む「講」が盛んになりました。この「講」を「月待」といい、中でも二十三夜講がもっとも広まりました。
この講では、月を「勢至菩薩」(智恵の光で一切を照らし、人々にこの上ない力を得させるという菩薩。「菩薩」とは悟りを求める人という意味)の化身として拝み、おまつりしました。栗田の近辺の講も、ほとんどが二十三夜講だったようです。
二十三夜塔は、この二十三夜講の人々により、供養の記念に建てられた石碑です。
栗田には、東組に1基(建立年代不詳)、吉原に1基(天保2年=1831年建立)、計2基の二十三夜塔があります。
うち東組のものは、「二十三夜塔」の文字の上に薄く「サク」と読む「種字」が刻みつけられている点に特色があります。(注:「種字(しゅうじ)」とは、仏や菩薩を梵字=インドで発祥した文字で表したもので、「サク」は二十三夜講で信仰して拝む月の化身=勢至菩薩を意味するものです) |
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エ.納経塔 |
江戸時代の半ば過ぎ(18世紀ころ)には、仏教などの教えが、人々の間にかなり広まったことにより、信仰に基づく様々な石碑が造立されました。
「納経塔」も、そのような石碑の一種です。
「納経」とは、供養などのために経文を寺社に納めることをいい、栗田には、中組(円通院境内)に1基(「南無阿弥陀仏」と大きく彫られた「諸国巡礼供養塔」、安永5年=1776年建立)、吉原に2基(うち「奉納経大乗妙典供養塔」:天保11年=1840年建立、「奉納経日本廻国神社仏閣供養塔」:天保14年=1843年建立)、計3基の納経塔がありますうち、吉原にある「奉納経大乗妙典供養塔」(注:「大乗妙典」とは「妙法蓮華経」=「法華経」のこと)の裏面には、この石碑を建立した行者さんの名前などとともに、「戸隠山神領栗田村」と刻まれており、この塔の建立当時の栗田が、戸隠山神領=戸隠神社の領地になっていたことを、今に伝えてくれています。
(注:江戸時代の栗田は、時期により、江戸幕府の領地となったり、越後高田城主・松平氏の領地になったりしましたが、安永年間=1770年代前半頃から明治維新に至るまでの間は、幕府領と戸隠神社領の分け郷となっていました) |
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オ.三界萬霊塔 |
この石碑は普通、寺の境内にあるもので、「世の中のありとあらゆる霊魂を等しく供養するという意味で建てられたものです。(そのため、他所では最後の文字に「塔」でなく、あえて「等」の字をあててあるものもみられます)
「三界」とは、「欲」「色」「無色」の三種の世界、すなわち「全世界」を意味しています。
栗田には、中組の円通院境内に1基(明和5年=1768年建立)あります。 |
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カ.地蔵菩薩 |
地蔵菩薩は俗に「お地蔵さん」といわれて、最も親しまれている仏様です。人々の日常生活の中で、ありとあらゆる願いごとを聞いてくださる仏様で、大地の慈悲を仏様の姿として、象徴的に表したものであるとされており、「延命地蔵」、「子安地蔵」など、様々な種類があります。
栗田にあるものは、いずれも中組の円通院境内にあるもので、次の4基です。
延命地蔵2基(いずれも建立年代不詳)、念仏供養1基(寛政12年=1800年建立)、子安地蔵1基(建立年代不詳)。
うち、子安地蔵については、別項「水内俊昭の筆塚」の中でもふれている弘化4年(1847年)の「善光寺大地震」で亡くなった倉石俊明氏と、その2人の子供を供養したものといわれています。 |
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キ.石祠 |
神様や仏様をおまつりした小さいお堂のことを「祠」といいますが、「石祠」とは、それが石で造られた特に小さいもので、全国どこでも、非常に多くみられ、まつられている神様なども様々です。
栗田では、別項でとりあげた「狗天伯社」と「水神」の石祠の他、吉原に1基(建立年代不明)の石祠があります。まつられている神様はよくわかりませんが、近年まで「蚕神」(養蚕の守り神様)の祭事が行われていたそうです。 |
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■平成24年度栗田町育成会作成
「歴史めぐり用資料(栗田・中御所・若里編)」
こちらからPDFをダウンロードしてください。
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■平成24年度栗田町育成会作成 「歴史めぐり用資料(栗田・鶴賀・高田・稲葉・川合新田編)」
こちらからPDFをダウンロードしてください。
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■栗田城址を整備する会 作製 「栗田城址と くりたのさと」 (地域の史跡と歴史)
こちらからPDFをダウンロードしてください。
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