ホーム > 栗田の歴史
時代 | 年代 | 事項 |
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弥生時代 | 紀元前 200頃 | 栗田近辺では、少なくともこのころから人々が生活。(芹田小学校遺跡から、弥生式土器が出土している) |
大和時代 | 西 暦 400頃 | 信濃国、大和朝廷の支配下に入る。 |
〃 700頃 | 信濃国に「十郡」がおかれた。(長野地方は「水内郡」)「郡」の下には「郷」がおかれ、栗田は「芹田郷」(世無多郷)に属し、「栗田の里」「千田の里」とも呼ばれた。 | |
奈良時代 | 〃 750頃 | 古文書に「芹田の里」「栗田の里」などの記載が散見され、水田耕作が盛んになった模様。 |
〃 768 | 水内郡の人、倉橋部広人が稲 6万束(約1,200石)を供出して農民を救済し、朝廷から賞せられた記録あり。(当時、それほど大規模な水田を有していた所は、栗田のあたりか?) | |
平安時代 | 〃 1150頃 | 栗田氏、栗田と、隣接する市村、荒木を領有。市村(現在の若里)には市が開かれ、渡舟場もあり、人の往来が盛んだった模様。 |
〃 1185 | 信濃国、源頼朝の領土となる。 | |
鎌倉時代 | 〃 1227 | 千田庄(芹田郷の後身)から国衙(こくが=国司の役所)に貢物をした。(信濃国の国衙は後町付近にあった) |
室町時代 | 〃 1400 | 大塔合戦。(栗田氏や千田氏など、この地方の土豪が加わった「大文字一揆」が、信濃守護・小笠原長秀と戦い勝利) |
戦国時代 | 〃 1446 | 漆田の戦い。(小笠原宗康が信濃守護の継承を幕府に命ぜられたことに、従兄弟の小笠原持長が反発し、中御所守護館付近(漆田原)で宗康と戦い破った。この時、隣接する栗田地区の人々も戦禍にあったと思われる。なお、持長は以後松本に住し「深志小笠原氏」といわれる) |
〃 1553 | 4月、武田晴信(後の信玄)、村上義清と上田原で戦い(この際、栗田氏は村上氏に従い出陣)、村上氏は敗れて越後に逃れた。 9月、上杉謙信が信濃に出陣し、善光寺平を占拠。 |
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〃 1555 | 上杉氏と武田氏が川中島において争う。この際、栗田鶴寿は武田方に属し、旭山城にこもって戦い、約100日も守り通した。 | |
〃 1570 | 栗田鶴寿、武田信玄から、千田と市村を領土に賜る。 | |
〃 1581 | 栗田鶴寿、武田氏に従い遠州に出陣、高天神城で戦死。 | |
〃 1582 | 武田氏が滅亡、織田信長、京都に入る。 3月、織田信長の臣・森長可が海津城(松代城)に入り、栗田・千田・市村を領有。 6月、織田信長、「本能寺の変」により京都に死す。森長可は去り、代わって上杉景勝が善光寺平を領有する。 |
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〃 1583 | 栗田永寿、「栗田寺」(姫塚の北あたりにあったという)を箱清水に移し、「寛慶寺」とした。(年号には諸説あり) | |
桃山時代 | 〃 1598 | 上杉景勝、豊臣秀吉の命により会津へ移封となる。(この際、栗田氏や千田氏など、北信地域の武士はほとんど会津に移り、栗田城も廃城となった) 同年、豊臣秀吉の臣・石川光吉が善光寺平を検地。また田丸直昌が海津城に入り、栗田、千田、市村を支配した。 |
〃 1600 | 関ヶ原の合戦。 徳川の臣・森右近が海津城に入り、栗田、千田、市村、川合を支配。 |
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〃 1601 | 松代城主・森右近、検地をおこなう。(“右近竿”伝説として今に伝わる極めて厳しい検地で、栗田もこれにより苦しめられたと思われる) | |
江戸時代 | 〃 1603 | 徳川家康、江戸幕府を開く。 花井吉成、それまで栗田の北に流れていた裾花川を改修し、現在の流れとする。 |
〃 1608 | 松平忠輝、松代城主となる(18万石)。実権は大久保石見守長安が掌握。 花井吉成は松代城代となり、栗田・千田・市村を支配。 |
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〃 1616 | 花井吉成、大久保石見守長安の罪に連座し殺される。 松平忠昌、松代城代となる。(12万石) 栗田の一部、天領(幕府領)となる。 |
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〃 1619 | 酒井忠勝、松代城代となる。 | |
〃 1622 | 真田信之、上田から移り、松代城主となる(10万石)。 | |
〃 1624 | 栗田・千田、越後高田城主・松平光長の領となる。 | |
〃 1680 | このころ、集合市がたくさん開かれ、行商も盛んであった。 | |
〃 1681 | 松平摂津守義行、栗田・千田を支配。 | |
〃 1703 | 栗田・千田・南俣、天領(幕府領)となる。 | |
〃 1744 | このころ、家数85軒(本百姓78・水呑7)、人口375人、高807石余(うち29石余諸引高)。田620石余、畑158石余という水田優越村であった。 石高は正保年間(1644〜48)から元禄期(1688〜1704)にかけて増加し、その後はあまり増加していない。 幕末には、換金作物の木綿作りや菜種作りが盛んになった(近村も同様)。 |
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〃 1825 | 下肥汲取り騒動おこる。(特に木綿と菜種の肥料用下肥の買い取り値の引き下げ要望に端を発した善光寺町の下肥汲取拒否。栗田村が運動の中心となり、千田・新田川合など近隣26か村が参加) | |
〃 1847 | 弘化4年 善光寺大地震。犀川大洪水により、若里・川合の堤防が大破したが。栗田村内では倒壊家屋や死者は出なかった。 | |
〃 1864 | 栗田村小作争議。 | |
〃 1865 | 栗田村小作争議。 犀川大洪水。 |
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〃 1866 | 栗田・千田、松代藩領となる。 | |
明治時代 | 〃 1868 | 栗田、伊那県となる。 |
〃 1870 | 栗田、中野県となる。 松代騒動おこる。(上山田村に発し、松代藩内一円に2日間で広まった。栗田など芹田地区の農民も参加し、うちこわしなどをした) |
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〃 1871 | 廃藩置県。栗田は長野県、千田・市村・川合新田は松代県となる。 | |
〃 1873 | 「励精学校」(現在の芹田小学校の前身の学校)が中千田専福寺に開校。 | |
〃 1889 | 栗田村・稲葉村・若里村・中御所村・川合新田村・鶴賀村、合併して芹田村となる。人口5,258人。 栗田に営林署できる。 |
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〃 1897 | 長野市制施行(5,523戸、29,285人)。 | |
大正時代 | 〃 1919 | 芹田村(栗田を含む)人口 7,762人。 |
〃 1923 | 芹田村、長野市に合併。(大正12年) | |
昭和時代 | 〃 1929 | 栗田に大火事があった。(昭和3年) |
〃 1941 | 太平洋戦争はじまる。 | |
〃 1942 | 栗田に日本無線(株)長野工場ができる。 | |
〃 1945 | 長野市に空襲、長野駅などに被害。栗田の上空にもグラマン戦闘機など飛来。間もなく終戦。 | |
〃 1947 | 川端中学校(現在の櫻ヶ岡中学校の前身の学校)開校。 | |
〃 1949 | 南部中学校(現南部小学校)開校。 裾花川大洪水(キティ台風)。若里・川合新田・大豆島方面に大被害、芹田小学校で炊き出しをし、舟で川合新田へ食糧を運搬。 |
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〃 1950 | 長野駅東口ができる。 | |
〃 1952 | 栗田に長野鉄道病院ができる。 | |
〃 1954 | 長野営林局、木曽から長野市栗田に移る。 | |
〃 1955 | この年、芹田地区(栗田を含む)人口 16,038人。 | |
〃 1958 | 新光電気工業(株)栗田工場ができる。 長野文化高等学校(現在の文化学園長野高等学校の前身)ができる。 長野駅東口から栗田に道路ができる。 |
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〃 1965 | 芹田小学校前に信号機設置。 松代地震対策で芹田小学校にプレハブ校舎が建設される。 |
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〃 1966 | 長野市、松代などと合併、人口272,988人。 | |
平成時代 | 〃 1990 | 栗田城跡の一部に「グランドハイツ東公園」マンションが建設されるのに先立ち、発掘調査が実施される(平成2年)。陶器や古銭等が出土。 |
〃 1997 | 長野新幹線開業 | |
〃 1998 | 長野オリンピック冬季大会・長野パラリンピック冬季大会開催 | |
〃 1999 | 長野市が中核都市となる。 | |
〃 2007 | 栗田町内会として地縁団体法人格を取得 | |
〃 2013 | 栗田ふれあい会館完成 |